『事実は小説よりも奇なり』(小説指導は難しい)
現代文の問題には、評論文と小説という2ジャンルがある。多くの受験生とって苦手意識の高いのは評論文だろう。では、指導するのが難しいのはどちらのジャンルだろう? 私は『小説』だ。理由は、小説指導は突き詰めると『共感力』に辿り着いてしまうからだ。
設問を解くには、❶場面設定の情報を読み取る、❷それを背景として登場人物の心情が『どう変化したか』を推測する、という作業が必要になる。その【推測する】という作業の前提には【共感力】(人間観)がある。
人は他人の行動(の意味)を解釈(意味づけ)する際に、自分の行動原理(価値判断の癖)を採用する。『自分が◎◎する時には、△△な意図を持っている』から、『◎◎な事』をされた時、相手は『△△な意図』を持っているに違いない』と考える訳。
つまり、人は、自分が持っている発想のパターン内でしか、人の気持ちを斟酌(しんしゃく=汲み取る≒推測)できない。
だから、持っている発想のパターンが多ければ多いほど、『そうだね』『そんな風にも思うよね』と共感できる幅が広がる。逆に手持ちのパターンが少なければ、自分の解釈と相手の真意の間にズレが生じる可能性が高くなる。
『共感力』とは『発想パターンが豊かにある』ことなんですね。
小説のできない子の中には、この『共感力』が低い(発想のパターンが少ない)ことが原因の子がいる。
この子たちには、まず『共感力』をつけてもらわない事には読解に進めない。人には色んな感じ方のパターンがある事を学んでもらわないと前に進めない。それはなかなか困難な作業になる。
一方、評論文は、基本的に『知識』と『論理』だから、理詰めで説明できる。たとえその時点で理解が難しかったとしても、時間をかけて繰り返しインプットすれば、やがてマスターできる(結局は『慣れ』だからね)。
それよりはやはり、『共感力』という【感性】を育てる方が百倍難しい。
で、なぜ表題が『事実は小説よりも奇なり』なのかって? それは、また追い追い。
疑問なきところに納得なし(古文の無痛治療)
えらく間が空いてしまいました。楽しみにして下さってる皆さん、ゴメンなさい。
しかも、久々に復活したと思ったら古文の話(笑) でも、きっと『目からウロコ』の役に立つ話なのでお付き合い下さい。
🔹受験指導については、現代文、古文を問わず、『無痛治療』を旨とする私。(面接指導は違うけど)
要は、出来るだけ無意味な『反復練習』や『根性暗記』を少なくしよう、というスタンス。
古文の習熟について長年『まず基本的な文法事項の暗記が必須』と信じられてきた。動詞の活用から始まり形容詞形容動詞、そして助動詞の活用表丸暗記へと続く、例のやつ。
まず活用を暗記して、(文脈の全然分からない)短文を相手に、機械的に確認作業をする。
ホントにそうなんだろうか?
助動詞の活用表を丸暗記して、古文読解が飛躍的にできるようになるんだろうか?
自分自身の経験では否だし、授業の現場でもそんな生徒は見たことない。
伸びる生徒は、それらのチカラワザ暗記に耐え得る暗記力を持ち、なおかつ、それ相応の文章に当たっている生徒なんだな。
🔹ポイントは『触れた文章量』。
文章の中で『あれ?、これ何やろう?』と疑問を持って、それから自分で調べたり考えたりして(それでもダメなら先生に解決してもらう)、そして最終的に『あ、そうなんか!だからこの品詞分解になるんや!』と納得する。
この【疑問→納得】の無数の繰り返しだけが、ネイティブ平安人に近づく方法なんだな。
ということは、活用表丸暗記もいいけれど、それより(それと並行して)、簡単なもので良いので文章に触れる機会を増やすことが大切になる。(必ずしも設問を解く必要はない)
今年、ある授業現場で『チカラワザ暗記』に耐える記憶力がなくても読解力をつけるメソッドを開発している。
手応えはある。7月の模試が楽しみ。
メソッドの中身は、追い追い書きていきますね。
頑固さと共感、出会い
教員採用試験には『集団討論』というのがある。要は『初対面の人と短時間でこんなにうまく話ができるようになりましたよ』とアピールするテスト。
人は自分の意見を変えたくないものなんだろうか?
人類の知見でさえ、時代とともに大きく変容してきた。況んや自分ごときのちっぽけな存在が考えつく事なんか多寡が知れている、と自分なんかは思うんだけど、どうなんだろう?
多寡が知れている=その時点その時点での認知には限界があるということ。
他者との関わり(読書を含む)は、その欠損を埋めるためにあると思うので、出会いは常に発見に満ちていて楽しい。
昨晩は、広告代理店に勤務されていた人とお話しする事ができた。楽しかった^ ^